2013年10月5日土曜日

Deichmann100周年記念式典



         (デュッセルドルフ・シャドー通りのダイヒマン靴店)
 Deichmann靴店のグリーンの看板はドイツ国内の諸都市いたるところで見かける。ドイツのみならず、この靴販売の会社は今日全世界20カ国以上に3000以上の支店と33000人の従業員を抱え、年間の販売数は16000万足、売り上げ高は40億ユーロを超える一大企業である。

 最初の店はEssen, Borbeck地区にある靴修理の店だった。靴販売の開店の年は1913年、店主の名前はハインリッヒ・ダイヒマンといい、妻のユリエと家族だけの小さな店だった。彼らの商売のモットーは「ルール炭田の貧しい労働者たちに、安くて頑丈な靴を届けよう」というものであったという。1940年店主が死去した後の店は、未亡人と4人の娘で続けられた。43年ソ連で戦傷を負って帰還した一兵士エルヴィン・フライシュラートがこの家族の次女エレンと結婚し、義母ユリエを助け靴の仕事に従事する。これが我が妻の両親である。後に社長・会長となるハインツ・ホルスト(我々はオンケル=おじさん・ハインツと呼んでいる)はこの家族の末っ子で、彼も兵役(少年兵だったろう)につき負傷兵となり戦後帰国する。まだハイティーンの若者であった彼はデュッセルドルフ大学で勉強を始めた。

 エッセン外の支店をデュッセルドルフ中央駅近くのアッカー通りに開いたのは1949年。まだ学生であったハインツと義兄エルヴィンは車で靴を運び、新支店での営業を開始した。一日の労働の後、2人が夜宿舎のベッドに横たわっていた時も、将来の企業家ハインツは自分の会社をいかに発展させるか、自分の夢を語り続け終わることを知らず、疲労困憊していたエルヴィンを寝かせなかった、というエピソードは義父からよく聞かされた。ハインツは学業を終え医学博士号を取得、整形外科医として開業するまでになっていたのは1956年のこと、将来医者として独り立ちするか両親の始めた靴の店を続けるかの決断をすべき時が訪れたのだが、彼は後者の道を選んだのだった。それから半世紀後、これだけの規模をもつ大企業となるとは、その頃誰が予想しただろう。

          (100周年記念式典会場のPhilharmonieの外と内)
 去る101Deichmann創業百年の記念会がEssen Philharmonieを会場として催され、我々も招待された。数時間におよぶこの式典で我々は、上のような商店・会社・企業の発展の歴史を再度詳しく知ることができた。出席者の中に企業関係の仲間や靴製造会社の代表が多く見られたのは言うまでもないが、政界の有名人も多く出席、エッセン市市長の他にここNRW州の首相ハネローレ・クラフト女史の姿もあった。彼女は式辞の中でDeichmannの社会貢献について感謝のうちに多くを述べていた。
        (壇上のクラフト州首相、パース市長、ダイヒマン親子)
 自由教会(ドイツ・カトリックにも新教にも属さない)の信者であるハインツは1977“Wort und Tat“「言葉と行い」という救済組織を造った。その目的は、世界各地の恵まれない人々のために、私費を投じて、救済の仕事をするところにある。救済を必要とする国、悲惨のうちに暮らす人々のため、病院・学校・職業訓練所等が建設された。現在まで援助を受けている国としてインド、タンザニア、モルダウ、ギリシャ等が挙げられる。その他ドイツ国内また世界各国での援助プロジェクトは枚挙にいとまがない。またハインツはキリスト教とユダヤ教、イスラム教の相互理解に尽力した功績のゆえにイスラエルの大学から名誉博士号を受けた。 「人生において多くの恩恵をうけたものは、その代わりにそれに応じて多く与えねばならないのです。自分の苦悩をまぬがれたものは、他人の苦悩を軽くし助けるために力をかさなければなりません」。神の愛、他者への愛を「言葉」で語るだけでなく「行い」でもって実践する、そこに救済組織“Wort und Tat“「言葉と行い」の根拠がある。
         (記念音楽番組を受け持ったエッセン交響楽団)
 1989年以来Deichmann社は息子ハインリッヒ・オットー(50歳、親類では彼をハイノーと呼ぶ)が社長職を引き継ぎ、ハインツは会長に退いた。記念式典ではハイノーの息子ザムエル(20)が紹介され壇上に3世代が並び立った。100周年を節目に、これからも同社が絶えず発展して行ってほしいと心より願うものである。
         (式典会場のロビーに陳列されたダイヒマンの靴)

2 件のコメント:

  1. 三千男さん、ダイヒマンという靴の大手企業とご縁があるようで、創立(もっと前には靴修理さん)から100年を超えるというのは、半端ではないですね。グローバル企業として「靴だけ」で伸びる世界ではなくなってきて、事業も変化するでしょうね。私も靴は「寸法をとって誂えた時代」もありましたが、近年は既製品のサイズ合せになって来ています。かなり前、仕事の出張で訪独した折、靴誂えしに行く同僚に同道した経験では、マイスター的な職人さんがまだ仕切っていました。1980年ごろです。将来、こういうお仕事はどう変化していくのでしょう。やはり皮加工を基盤技術に多事業化なのでしょうか?大阪の山さん

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    1. 山さん、私の知る限りではダイヒマンの主要商品は靴のようです。もちろんやって来る顧客はついでに関連商品も買いたいので、バッグ、リュクサック、靴下、靴クリーム類など店内に揃えていますが、その数は限られています。以前我々はテニスラケットを買った覚えがありますが、それも姿を消しました。
      以前は考えられなかったことですが、最近の傾向ではいわゆるブランドスポーツ靴(ナイキ、プーマ、アディダス、アシックス等)も沢山揃えています。しかし価格は高くない50ユーロ前後の品に限定しているように見えます。

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